-EP.9- 史跡「篠原古戦場跡」と「首洗池」
1. はじめに
今月は15日が老人福祉法により「老人の日」として、また、19日が「敬老の日」として国民の祝日に関する法律により祝日に制定されております。いずれも、趣旨は、老人を敬愛し長寿を祝う日等としておりますので、御祖父母等関係方々へのご配慮もお忘れなく。
今回は、趣を変えて、本格的な秋の行楽シーズンも近いことから、石川県の観光スポットとしても知られる標記の史跡を参考までにご紹介します。
2. 所在地等について
(1)篠原古戦場は、加賀市柴山町に在ります。小松空港から車で片山津温泉郷に向かうと、約10分位で到着できる場所で、柴山潟にも近く、道路わきの古びた小さな池が目印になります。この池の名称は少し怖いような名前ですが「首洗池」と呼ばれております。
(2)当地は、平安時代末期にあたる1183(寿永2)年に、倶利伽羅の合戦で木曽義仲の軍勢に追われた平維盛の一軍がはかない抵抗を試みた地です。この戦いを、「篠原の合戦」といいますが、この戦いで、平家の老将「斎藤別当実盛」は、白髪を黒く染め、侍大将のみが着用を許された錦の直垂を身にまとって出陣、敗走する平家軍のなかで唯一騎、踏みとどまり、奮戦するも源氏方の手に討たれて散りました。
この後に、実盛の年齢と装いに不審を抱いた源氏方の侍が、実盛の首を池で洗ったところ白髪を黒く染めていたことが判明し、以後その首を洗った池を「首洗池」と伝承されているとのこと です。(「平家物語」に詳述あり。)
3. おわりに
実盛の出陣時、本人の年齢は73歳であったと言います。敵方に「老武者」と侮られることを恥とし、死を覚悟の参戦に相手方から手心を加えられることを嫌っての白髪染めであり錦の直垂着用であったとされています。
また、実盛は、木曽義仲の幼少期における命の恩人であり、義仲が、実盛の首あらための後、それと分かると、実盛の首を抱いて泣き咽んだとの哀しい逸話も残されています。
実盛が相手に命乞いもせず、粛々と死に臨んだ武士としての心構えや振る舞い等が、後世の多くの人に「武士の鑑」として語り継がれ感銘を与えています。
「無残やな 兜の下の キリギリス」 松尾芭蕉
担当:茶山顧問